地球人(戦闘力5)の微かな叫び

全宇宙の中の1人による、小さな叫びの場所

東国の雄へ。

おはようございますから、こんばんは。

 

 

 

 

では早速、前回の続き書いていきましょうぞ!

yamato0915.hatenablog.com

 

 

2代目・氏綱について。

 

家督を譲られてからは前回の記事の最後でも書いたように、虎の印判状を用いて百姓・領民の支配を着実なものにしていきました。

また、今まで本城の機能を韮山城に置いていましたが、ご存じの方も多い小田原城に移転します。

そして遂に、名字を伊勢氏から北条氏へと改めます。北条氏綱の誕生です。

勢力からの反発を抑えたり支配体制を盤石にするために、関東支配に縁のある執権北条氏の名字を持って、領国支配を正当化するために行ったと言われています。

研究によると自称ではなく、朝廷に正式に認められたものであるといいます。

 

ここから本格的に関東支配のために侵攻していきます。

周囲は敵だらけ。山内上杉氏・扇谷上杉氏・里見氏等々、関東に古くからいる勢力で名家揃いです。

甲斐の武田氏も後に敵対します。

まさに出る杭は打たれるです。

まず相模の隣国である武蔵に領土を持つ扇谷上杉氏と衝突します。

計略により太田資高を寝返らせ江戸城(この時代の関東は都・京都から離れており、かなりの田舎)を攻略し、その勢いのまま岩付城も手に入れます。

しかし扇谷上杉氏は周辺勢力と和睦そして協力し、北条包囲網を形成して氏綱を追い詰めます。

ですが、後世に至る現在に名を残している氏綱がここで倒れるはずがありません。

小弓公方足利義明と和睦し、里見氏にも内紛が起きて包囲網を離脱します。

さらに小弓公方を支援していた真里谷武田氏も内紛が起きます。

そして遂に扇谷上杉氏当主・上杉朝興が病死したことを機に氏綱は反撃に転じ、敵の本拠・河越城を奪取します。

 

この一方で、先代から続く姻戚関係に基づいて今川氏とは同盟関係にあり、その敵である甲斐武田氏とも争っていました。

その渦中において、今川氏で家督争いによる内紛が勃発します。

花倉の乱です。

この時代によくある正室の子と側室の子にある争いです。

氏綱は正室の子である栴岳承芳(せんがくしょうぼう、後の今川義元)側につき、勝利を収めます。

しかし今川義元は敵対していた甲斐武田氏当主・武田信虎の娘を娶り、同盟を結んでしまいます。

これに怒った氏綱は今川氏との同盟関係を破棄して、形式的に主従でもあった関係も解消されて、完全に独立した大名となりました。

 

そしてまた東の敵です。小弓公方と対立していた古河公方が北条氏と利害一致して氏綱に「小弓御退治」を命じたため大義名分を得て、小弓公方・里見氏連合軍と敵対します。

これが後に言う「第一次国府台合戦」です。

この戦に大勝し、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大しました。

 

戦においても多大な戦果を挙げていますが、後北条氏にとって忘れてはならないのが「内政面」です。

領内の支配体制をさらに確固たるものとするために、小田原城を本城とした城のネットワークを築きます。

各支城には一門衆や重臣を配置して、それぞれ重要な支配拠点としています。

物資の流通を整備するために、伝馬制も行っています。

そして、小田原城を始めとする城の城下町を繁栄させるために職人や文化人を全国から呼び寄せたり、武器や防具に必要となる革製品などの特産品の奨励も行っています。

また、戦禍を被った寺社仏閣の再建・造営事業も盛んに行っています。

特に里見氏との合戦で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮においては力を入れており、武家の守護神が祀られていると言われている、これを再建すること(東国の支配者が昔から行ってきた)によって、関東の正式な支配者たることを内外に知らしめるための意味もあるので、氏綱の死後まで続いています。

 

さて、ここまで2代目・氏綱について書いてきました。

やはり内容が濃い。

初代・早雲だけで大河ドラマは完成してしまいそうなボリュームですね。

小田原市l北条五代観光推進協議会

小田原市は北条五代を大河ドラマ推しているようですが、1年で描ききれそうに無いと思っているのは私だけでしょうか。笑

 

次回はさらに濃い3代目・氏康について。

 

 

 

 

では、また会いましょう。